鄭南榕氏 PDF 列印 E-mail


鄭南榕氏の生と死

翻訳者:蔡焜霖


1947年 台北市漢口街に生れる

1972年 葉菊蘭女史と結婚

1980年 年末の選挙戦で周清玉女史を応援。同年に一人娘の竹梅さん誕生

1981年 雑誌「深耕」、「政治家」に寄稿を開始する。

1984年3月12日「自由時代系列雑誌」創刊、「100%の言論の自由」を追求。

1986年5月19日、台湾の戒厳令施行39周年に抗議して「519グリーン・アクション」を発動。

1986年6月2日、張徳銘氏に「選挙罷免法違反」を告発され、判決が下される前に投獄され、237日間禁錮された。

1987年1月24日釈放される。

1987年2月、氏が企画提唱した「228平和デー促進会」が設立される。

1987年3月18日「国家安全法反対」を推進するため国会を包囲。これはそれ以降に於ける国会請願運動の嚆矢となった。

1987年4月18日台北市金華国民中学校で演説し、初めて公に台湾独立を主張。

1987年10月、「蔡・許台湾独立案」を声援する台湾全島デモを推進、台湾独立を叫ぶ声が初めて台湾全土の津々浦々に響き渡った。

1988年11月16日台湾政治受難者聯誼総会と共同で「新国家運動」発起。

1988年12月10日、氏が主宰する時代週刊に「台湾共和国憲法草案」を掲載。

1989年1月21日、「新憲法台独案」が「反乱罪嫌疑」の廉で検察の令状を受取る。が、鄭氏は「国民党は我が屍を捕えることができようとも、我を捕えることはできない」と語り、1月26日から雑誌社に閉じ籠もった。

1989年3月12日、自由時代創刊5周年記念日。

1989年4月7日、早朝9時、雑誌社編集長室で焼身自殺決行。

 



 

他的火燄是我們的洗禮


作者:林世煜 胡慧玲

翻訳者:蔡焜霖

 

彼は228事件が勃発したその年に生れた。生を享けたその時から、運命の烙印が押されたのである。殺伐とした強権政治の時代に生を享けながら、若き命には昂然たる魂が宿り、自分を行動する思想家として位置付け、「外省籍」の少年がその後茨の道を歩む決意を強固なものにした。そして自らの命を燃焼させ、この土地を照らし続ける光と化したのである。

 

1947年2月28日に台北で発生した騒乱は忽ち台湾全土に蔓延した。中国から接収にやって来た官僚の腐敗と汚職に激怒した市民たちは、「外省人」と見れば見境なく殴打し、「外省籍」である鄭家へも押掛けて来た。

 

一家の主はその頃故郷の福州に帰省しており、3ヶ月の身重の妻が只1人留守宅を守っていた….

 

その時の胎児であり、鄭家の長男でもある鄭南榕氏は、40数年後に母から聞いた故事を語っている。「母は恐くて家の中に引籠もっていたのだが、隣に親切な人がいて周りを取り囲んだ市民たちに、この家の奥さんは台湾の本省人で良い人だからと言ってくれた為、我が家は難を免れ、私は今日まで生きて来れたのだ」と。

 

228事件の恐怖とディレンマとは、実に母胎の時点から鄭南榕氏について回ったのである。それ故、生れて初めて職を求めて書いた履歴書の中で、「私は228事件の年に生まれたが、その事件は私にとって終生苦悩の種になった」と述懐している。

228事件は、彼が真紅の炎の中で燃え尽きる最後の日まで、終生彼の心を深く悩み苦しめたのである。

 

鄭南榕氏は哲学を学び、 論理学を専攻した。

それは、真偽、因果及び是非を極める学問であり、

曖昧や妥協・虚飾を許さない科学である。

彼は古典的な自由主義を信奉し、個人の尊厳とその価値の追求を堅持した。

曰く「私は行動の思想家」だと。

 

必修科目であった「国父(孫文)思想」の授業を拒んだ為、折角の大学卒業証書をふいにした。

自由主義の信仰を実践するために、敢えて商人になる道を選んだ。

そして、美麗島事件後の初の総選挙で、反対運動に身を投じた。当時、彼に履歴書を要求する者はいなかったが、終生彼を悩まし続けた228事件への熱き思いは

その顔にありありと書かれてあった。

 

彼は街頭でビラを撒き、

国会に駆けつけて取材に当るなど忙しく駆け回った。

1984年の始め頃、

彼は雑誌発行の認可を取るため、多数の大学卒業証書を収集し、また親戚や友人から資金をかき集めた。

そして主管当局である新聞局に申請を提出し、「時代週刊」を創刊した。

行動の思想家は愈々行動を開始したのである。

 

1984年3月12日創刊された時代シリーズ週刊誌は、

その後5年8ヶ月の間に

全部で302号発行され

彼の死後半年後に漸くその幕を閉じた。

 

雑誌創刊の初めから彼は強烈な起業家精神を発揮し、

警備総司令部の取締りと没収、

及び新聞局の発禁処分に対抗するため、

集めた大学卒業証書の持主をそれぞれ発行人として一気に18誌の発行認可を取得し、印刷から配本までのネットワークを作り上げた。軍や警察の網が張巡らされた台湾全土で、大胆不敵の智謀で抑圧の手と戦い、損得抜きで雑誌を発行し続けた。

 

「100%の言論自由」を勝取るために創刊された時代週刊は、厳しい弾圧の環境にありながら、

米国で暗殺された作家江南の「蒋経国伝」を全文掲載し、また蒋経国の病状の真相を度々伝え、

軍の黒幕や悪弊を暴露した。

その為、同誌は発禁処分最多記録を何度も更新し、

発行人に名を連ねた者が何人も投獄された。

自由主義を信奉する思想家の信念は行動に移されたが、その代価は余りにも大きかったのだ。

 

1986年以降、

鄭南榕氏は活動を強化し、行動半径を更に広げた。

前後3年の間に彼の手によって企画遂行されたもの:

1986年のグリーン・アクション――

群衆が龍山寺に結集し、39年の長きに亘った戒厳令に抗議の声を上げた。

1987年、228和平促進会を発起――台湾各地でデモと演説を繰返し、政府に真相究明、冤罪の清算、及び住民のエスニックグループの融和を進めるよう要求。

1988年、台湾政治受難者聯諠総会と共に「新国家運動」を発起し、全島を40日間行軍した。

 

これらの行動の軌跡から、鄭南榕氏が終生彼自身を悩み苦しめ、又台湾を数十年も縛り続けた228の呪縛に対し、真正面から向き合ったことが伺える。

1987年4月16日

台北市金華国民中学で開催された公開演説で、

彼は意気軒昂として壇上に上がり

大声を張り上げてはっきりこう叫んだ:

「私は鄭南榕だ、私は台湾独立を主張する」と。

 

時代雑誌社の当時の社員達が、

その後語り続けた思い出話によれば、

鄭南榕氏は何時も編集長室で、

何度も何度も繰返し

その時の録音テープを聞きながら

顔には喜びに満ちた笑みが浮かんでいたと言う。

 

そして、終生彼を悩まし苦しめた228事件は

水も漏らさぬ漆黒の緞帳の如く

台湾全島を遍く覆い被さっていたのであるが、

彼の雄叫びは

漆黒の緞帳を引き裂き

人々はその隙間から頭を出して光を見付け

欣喜雀躍したのだった。

 

度重なる公開の演説の場で

鄭南榕氏は、四方から集まった群衆に向かって

眼光烱々として語った:

「私は外省っ子だ、だが私は台湾独立を主張する」

そう明言するや否や、元来苦渋にゆがんだ顔は清らかに晴れ渡り、引き裂かれた尊厳も融合し

遂に228の苦悩から抜けだし

そして、彼は生まれ変わり、人格が完全に調和し、独立した一個の新人となったのである。

 

彼は率先して米国で設立された台湾民主党に加入し、

台湾島内の第一号党員となった。その後、許世楷博士の「台湾共和国憲法草案」を雑誌に掲載した為、高等検察処から「叛乱罪嫌疑」の令状を受取った。

 

一度地に落ちてから甦った者は死を怖れず、

悪逆不義の政権が卑怯な手段で迫って来た時に

彼は豪語した:OVER  MY  DEAD  BODY!

「国民党は我が屍を捕えようとも、我を捕えることはできないのだ」と。

 

鄭南榕氏は1989年1月27日から自らを幽閉し、

これより雑誌社から一歩も離れることがなかった。

編集長室の机の下にガソリンを3樽置き

その上にテープで緑色のライターを一つ貼りつけた。

そして雑誌社の内外にも防御の工事を施した。

各地から応援にきたボランティアが日夜詰め掛け、軍や警察の強行逮捕を防ごうと図った。

 

その間、前後71日に亘る間、

不測の事態を心配する親友達が次から次へと尋ねて来た。義光教会の紀牧師は、毎週信者を引き連れて来て、雑誌社で礼拝を行った。

益々晴れ渡る彼の笑顔に、人々は顔をそむけて涙を拭うばかりであった。

 

甦りし勇者鄭南榕の肉体は滅びようとも、精神は永久に死なず、彼は堅い決意を固めた:

「烈々と燃盛る炎の中で、400年来台湾を閉じ込め続けた牢獄を焼き尽くさん」と。

かつて騒乱の恐怖の中で身籠られた1人の外省籍の子供が、今は真っ黒に焦がれた屍となりながらも

台湾共和国の父となって昇天したのである。

 

1989年4月7日の明け方

国民党は多数の軍勢で雑誌社を奇襲攻撃した。

鄭南榕氏が身を翻して編集長室に入った途端に

猛火が炎々と燃え上がった。

烈々たる炎の中で

鄭南榕氏は祭壇の生け贄となった。

天上天下に満ち充ちる

我ら台湾人の祖先たちよ、

かつて恨みを飲んで逝った先人たちよ、

今我々が立ち上がる時が来たのだ。

 

命をかけて義を成就した勇者が現れ、

今や新しい台湾国は燃え上がる炎の中で受胎した。

今尚この地に生きる人たちは

涙を拭い立ち上がろう。

枷や鎖は既に解かれた。

人々は信仰による義を認められ、畏れず慄かず、自由を勝取るべく前進し続けるのだ。